私は広汎性発達障害で味野医院に通院している30代の男性です。
先生の「こころの健康相談室Q&A」を楽しみにしていましたが、最近更新がされていないので少々寂しいです。そこで質問状をたくさん先生にお渡ししましたが、「難問ばかりだよぅ」と先生はなかなか回答くださいませんね。最初のQが下記のものでした。
先生に何度もお話してきたように、今までに学校や職場でいじめやパワハラを沢山受けました。学校では担任の教師にまでいじめを先導され、クラス中の笑い者にされてきました。今は家庭にこもっている生活ですが、それでも、「過去の加害者に対する恨みや、仕返しをしてやりたい気持ちが、何かの時に急にわき出てきます。そんな人々を赦す(ゆるす)にはどうしたらよいでしょうか?」
味野医院の待合室に自作のアニメ冊子「強迫神経症のクマ」をプレゼント下さり有難うございます。あなたの体験をもとに描いていただいているので、その表現に力があるのだと思います。No.1もNo.2も同じ悩みの方には好評です。毎回のあなたとの診療時間は、私にとって、楽しくもあり苦しくもある時間です。言葉を選びながら懸命に質問を発して下さることに敬意を申し上げています。そして、普通ならプライドが邪魔して恥ずかしくて言えないような心の奥底から出てくる叫びのようなあなたの質問に、私はおいそれと軽率に答えられない苦しみを感じるのです。私は比較的気軽にお答えをしてしまう性格でありますが、その私が思いとどまってしまうくらい、深い苦しみから出てくる質問であるからでした。
自分の方が間違っていたとわかる場合でさえも、叱られた時は辛いものです。一人の時に叱られるのと、人前で叱られるのとでは「恥」のレベルで傷つき方が違います。ですので、今度自分が人を注意する立場になった時には、あなたは相手を傷つけにくい注意の仕方ができる人になられるでしょう。また叱ってくれたことが、その人の自分への愛情から出たことだと感じられれば感謝の気持ちさえ感じることができます。微塵も愛情を感じず、人前で理不尽に、これ見よがしに叱られたときに人は「いじめられた」と感じ、「一生残る深い傷」になる場合があります。
そして強迫性障害や自閉性スペクトラム障害、広汎性発達障害等の診断のついている方々は特に、一定のこだわったことに対する不安・確認強迫・注意力・記憶力・瞬発力?等が人の何倍もあって、その記憶が写真どころかDVDの何コマ分の再生のように、その時の怒り悲しみの感情・におい・景色までもがありありと思い出されるのでしょう。こうやって何度もいわゆるフラッシュバックを体感するので、どんどん傷つき体験の記憶は刷り込まれて固定されかねません。何気ない日常で、光景や相手から出る言葉・態度をモニタリングし、その中で特に自分の傷つき体験のスイッチに触れる出力をこちらがキャッチしてしまうと、フラッシュバックのエネルギー装置の出力がON(作動)しやすい特異性をお持ちの方々なのだと思います。人生の成長過程で何度もマイナスの否定的入力を受けると、そのマイナスデーターばかりが蓄積されて、「どうせ私なんかは・・・」と先に先にと被害的解釈に陥り、負の連鎖で、何年も前の加害者に対して、たった今仕返しをしたい感情が生まれてくるのでしょう。
仕返ししてやりたいとあなたがおっしゃったとき、私は「仕返しはもう時効を迎えている。」とか「仕返しは人間程度のものがすることではない。神様のなさることだよ。」とか、わけわからないことを言ってきましたね。「スイッチが入ってしまったときどうするか?」というご質問に答えられてはいなかったですね。
ここから以下の文章は、ご本人にお返事した文章と多少宗教色を抑えて、変更しております。様々な宗教には、仕返ししてやりたい欲や性欲・金銭欲・名誉欲などの煩悩に苦しんで、難行苦行の修行をして悟りを開いていこうとするものや、ひたすらお念仏やお経を唱えれば救われるというものや、いろいろあると思います。あなたのように「仕返しをしたい気持ちは罪だ。赦せない自分はダメだ。」と自覚した時点で、自分の罪を自覚した人だけが悔いることができるのだと思います。(罪を自覚していない人は、私は何も悪くない、と言いますから。そうだとするとまた何も思わずに、やってしまうのですから)信仰を持っている人はその助けを乞い「どうか私を、人を赦せる者にして下さい。」と神に祈ってみてください。私はクリスチャンの端くれです。信仰の門を閉ざしている扉は、軽く叩くだけで開かれるのですが、私は門の前をうろうろしたり遠ざかったりしながら、30年がかかってしまいました。門は叩きましたが、一昨年には、私の人生最大の不幸を体験し今なお生傷が癒えません。癒えることはないでしょう。でも神様にお祈りします。それぞれの人に、生きていく意味を指し示してくださるからです。目の前の与えられた場所で生きるのです。
まだあなたへの回答にはなっていないです。それほどに私には荷の重い質問でした。ご両親にとって、そして神様にとって、大切な存在であるあなたが、苦しんで生きて来られたから、魂にかかわる根源のご質問を私に投げかけ、私に考える機会を与えてくださったのでしょう。神様は、いかにもそれらしい形をして私の前には現れないことを私は知っています。感謝します。よたよたしながらですけど、これからももう少し私と一緒に生きていってください。